オーストラリア留学する前に知っておきたいオーストラリアの歴史

「オーストラリア」と聞いて、なにを思い浮かべますか?面積が大きい国、オペラハウスなどの建築物、2000年にシドニーでオリンピックが開催された、カンガルーやコアラなどの動物がいるなど、さまざまあると思いますが、オーストラリアの歴史について答えられる人は少ないのではないでしょうか。歴史の授業でもオーストラリアのことを取り上げることは少なく、日本人にとって触れる機会が少ないもの。
そこで今回は、オーストラリアとはどのような国なのか?歴史をたどりながらまとめたいと思います。

オーストラリアの基本的な情報

正式な国名はオーストラリア連邦。日本での略称は豪州です。オーストラリアの領土には、本土とタスマニア島、近隣の小島が含まれ、総面積は769万平方キロメートル。(世界第6位、日本の20倍の広さ)南半球に位置し、ニュージーランドやフィジーなどとともに、オセアニアの一国に分類されています。
オーストラリアの総人口は2,460万人(2017年)、ちなみに日本は1億2680万人(2017年)。日本の20倍の国土がありながら、人口は5分の1です。
公用語は英語。首都はキャンベラというシドニーとメルボルンの中間にある都市です。最大の都市はシドニー。日本との時差は1時間ですが、サマータイム時(10月~翌年4月)は2時間となります。オーストラリアのほうが進んでいるので、日本が10時であれば、オーストラリアは11時です。

オーストラリアの歴史

オーストラリア大陸の発見

オーストラリアは、地理的にほかの大陸と離れた島国であることから、長きに渡りどこの国からも干渉を受けずにいました。最初にオーストラリア大陸に上陸したヨーロッパ人は、1520年頃に香辛料を求めて航海中だったポルトガル人と言われています。上陸したものの、目ぼしい産物が見つからなかったため、オーストラリアに脚光は当たりませんでした。 その後、1600年以降にオランダ人探検家がタスマニア島を発見。1600代後半にイギリスの探検家がオーストラリアの北西海岸に上陸。1770年にイギリス人の海軍士官であり、探検家のキャプテン・クックがオーストラリア東海岸に上陸し、イギリス領として宣言。ここからようやく、今のオーストラリアに至るまでの歴史が始まります。ちなみにキャプテン・クックはハワイ諸島を発見した人物としても有名です。

大陸が発見される以前のオーストラリア

キャプテン・クックによるイギリス領宣言がある以前のオーストラリアには、ヨーロッパや日本のように独自で発達する文明はなく、先住民族アボリジニがオーストラリア全土で狩猟などによる生活を営んでいました。彼らは約6万年前、第4氷河期に中東アジアから移住してきたと言われており、当時の人口は50~100万人。広域なオーストラリア全土で700を超える部族が多種多様なコミュニティを形成していました。習慣や言語は地域によって異なり、250以上の言語が存在していたと言われています。 現在もアボリジニは存在し、大多数が英語を話しています。

植民地時代

キャプテン・クックのイギリス領宣言をきっかけに、イギリスの植民地としての入植が始まります。植民地としての最初の利用目的は流刑地(島流しの行き先)でした。1786年シドニーに1,500名(半数が囚人)が上陸したことから始まり、囚人の護送は1868年まで続き、男女総勢16万人の囚人がオーストラリアに送られました。 囚人たちとともにやって来た兵士や役人、または、刑から解放された囚人たちは、国から土地を与えられ、農業を起こします。なにもなかった大地はどんどん開拓に成功。イギリスにいる人々の耳には、植民地に安価な土地と豊富な仕事があるという情報が知れ渡り、当初流刑地だった場所に多くの移民がやって来ることになります。 人の増加に加え酪農が発展したことにより、人々は牧草地と水を求めて入植域を広げます。シドニーから始まった入植は、現在のブリスベン、パース、メルボルン、アデレードと次々にその範囲を広げていきました。 新たな文化が入ってくる一方で、アボリジニの平和な生活は一転。植民地になる前は人口50~100万人とされていたが、1920年には約7万人にまで減少。人口減少は、ヨーロッパ人が持ち込んだ伝染病が最大の要因でしたが、流刑囚や土地を広げたい移民によるアボリジニ虐殺も大きな要因と言われています。

大発展のきっかけ「ゴールド・ラッシュ」

各植民地が農業や酪農だけでなく、羊毛業や鉄鉱石の採掘で経済が安定し、植民地が成熟していくと、イギリス本土との関係に変化が現れます。イギリス政府は各植民地に、イギリスの憲法と議会制度を導入し、自治権を与えたのです。 各地が今の日本で言う都道府県のように整備され始めた頃、1850年代に、シドニーのあるニュー・サウス・ウェールズ州で金鉱が発見され、ゴールド・ラッシュが発生。一攫千金狙いの大量の労働者が、他の州から金を求め金鉱地へ流出する騒ぎとへ発展。そんな中、メルボルンのあるヴィクトリア州でも金鉱が発見されたことで、採掘熱はさらに過熱。このゴールド・ラッシュは世界に知られ、世界各国から金目当ての移民が殺到、1850年に約40万人だった人口は、1860年には約114万人へと急増します。 この時、さまざまな文化や技術が流入した一方で、国としての体制がまだまだ整備されていなかったため、人口の急増は大きな混乱を招きます。特に中国人の流入は多く、白人採掘者との間には大きな摩擦が生じました。 これをきっかけに植民地政府は中国人に対し、「中国人移民制限法」を制定。さらにその後、中国人だけに絞らない「有色人種制限及び取締法」を制定します。白人以外には移民制限をかけるという、世界で初めての人種差別の法律で、この政策は「白豪主義」と呼ばれています。白豪主義は、1973年まで続くことになります。

国家の誕生

ゴールド・ラッシュ以降、植民地間の関税や移民問題、そして国防の面から植民地連携が検討されるようになります。 1891年、シドニーに6つの植民地が集まり、連邦憲法制定に向けた会議が初めて開催されました。同様の会議は各地で開催され、さまざまな問題解決を図る議論を重ね、10年の歳月を経てアメリカ型の連邦国家の建設を決定。国家の機軸となる憲法草案が作成され、これをイギリス政府が承認。1901年1月1日、ついに「オーストラリア連邦」が誕生。 連邦国家とは、それぞれの州が主権を持ち、外交政策など各州の共通の利害に関わる部分は中央政府が担当するという国のあり方。アメリカ、カナダ、ロシア、ドイツ、スイス、ベルギー、ブラジルといった約20カ国が連邦制を採用しています。 かつて植民地支配を受けた多くの土地が連邦国家になっていることが特徴。人種や宗教、言語が多種多様に発展してきたものを、いきなり国として統一することによる対立や分裂を避ける意味でも、各地に一定の自治権を与えた連邦制が適していると言われています。

世界戦争期間への突入

オーストラリア連邦が誕生して間もない1914年、イギリスがドイツに宣戦布告をしたことを機に「第一次世界大戦」が勃発。イギリスと深い関係のあるオーストラリアもイギリス軍として参戦。アメリカ、中国、そして日本を含む多くの国と同盟し、連合軍としてドイツやオーストリアの中央同盟と大戦。この戦争にオーストラリアは40万人を動員。総人口が500万人に満たなかった当時を考えるとかなり大規模な動員数だったことになります。 ガリポリの戦い(第一次世界大戦の局面のひとつ。トルコのガリポリ半島を制圧しようと、オーストラリアとニュージーランドの共同部隊が上陸して展開した戦い)では敗北し、多くの犠牲者を出しました。作戦決行日の4月25日はANZAC DAY(Australian and New Zealand Army Corpの頭文字を取ったもの)として、兵士を追悼するために今でもオーストラリアの休日になっています。第一次世界大戦の終結は1918年。 時は進み1939年、人類史上最大の大戦争「第二次世界大戦」が勃発。オーストラリアは再びイギリス率いる連合軍として参戦。この時日本は大戦相手の枢軸国の一国として参戦。この戦争の局面のひとつ「太平洋戦争」では、オーストラリアは日本と激突。イタリア、ドイツ、日本が降伏したことにより1945年、第二次世界大戦は終結。 この戦いの後、オーストラリアは1945年国際連合が設立されると同時に加入が認められ、国家として国際的な地位を確立することになります。日本の国際連合加盟は1956年。

戦後のオーストラリア~現在まで

戦後、オーストラリアに好景気が訪れます。製造、生産が活発であった金属・羊毛・食肉・小麦への国際的な需要が高まり、オーストラリア全土は繁栄。さらに水力圧電施設の建設などインフラ整備も進み、1950年代、オーストラリア経済は大きく成長を遂げます。 経済的、社会的に大国となったオーストラリア政府は、1960年代になると先住民族に参政権の付与。1970年代には徴兵制度の廃止、大学の無料化、無料の国民保険の導入、そして白豪主義の撤廃とさまざまな改革を実施。多文化を受け入れる今のオーストラリアへと変貌を遂げました。 オーストラリアは独立した今もイギリス連邦加盟国としてイギリスと密な関係を保っています。

オーストラリアと日本の歴史

オーストラリアと日本の関係の始まり

オーストラリアと日本の関係は、日本が鎖国を廃止した1854年以降に始まりました。オーストラリアからは日本に興味を持つ宣教師や教師が来日し、布教活動や大学の教壇に立ち、日本人学生に勉強を教えていました。ジェームス・マードックというオーストラリア人は、現在の東京大学で夏目漱石らに授業をしていたことで知られています。 一方で多くの日本人も、真珠の採取やサトウキビ産業に従事するためにオーストラリアへ渡りました。移民としてオーストラリアに渡る人もおり、1901年には3,600名ほどの日本人がオーストラリアで生活をしていました。その後オーストラリア国内で移民制限法が制定され、1933年には2,080名まで減少。

第二次世界大戦による関係悪化と関係回復まで

オーストラリアと日本は戦争で大戦した国同士、戦後は両国の関係は悪化し、貿易が衰退します。しかし、1951年に日本がサンフランシスコ条約にサインし、戦争終結後、オーストラリアはいち早く日本との国交を正常化させます。 1957年には日豪通商協定が結ばれ、貿易は活発化。オーストラリアから輸入した石炭や鉄鉱石などの原料のおかげで、日本の鉄鋼業は大きく成長。高度経済成長にも大きく貢献しました。 両国間の貿易は、今でも輸出入どちらもお互いが主要国である友好な関係が続いています。

大発展の現在

イギリスのエコノミスト誌の調査する「世界一住みやすい街」では、メルボルンが7年連続1位。さらにシドニー、アデレード、パースも評価が高く、トップ10内にはオーストラリアから計4都市も選ばれています。 このランキングの指標は【経済、医療、文化・環境、教育、インフラ】の5項目です。この項目で世界的に認められているということは、まさに世界大国の一つと言えます。 オーストラリアは「世界一経済成長を続ける国」としても注目を集めています。1992年以降26年間、プラス成長をしています。これほどの期間成長を続けている先進国はほかにありません。経済成長に伴い土地価格も高騰しており、シドニーは香港に次ぐ住宅が手に入りにくい都市としても近年話題です。

オーストラリアを代表する有名人

国としての歴史が浅いオーストラリアですが、世界的に有名な人はさまざまなジャンルに存在しています。

AC/DC

シドニー出身の世界的に有名なロックバンド。1973年~現在も活躍中。

イアン・ソープ

シドニー出身の水泳選手。シドニーオリンピックでは5つの金メダルと2つの銀メダルを獲得している。

ミランダ・カー

シドニー出身のスーパーモデル。

シーア

アデレード出身の歌手。

ヒュー・ジャックマン

シドニー出身のハリウッド俳優。代表作はレ・ミゼラブルやX-MENシリーズ。

サイモン・ベイカー

タスマニア出身の俳優。代表作はプラダを着た悪魔やドラマTHE MENTALISTシリーズ。

その他

アスピリン(1915年)、ペースメーカー(1926年)、ペニシリン(1940年)といった医療関連の発明者もオーストラリア出身者です。

まとめ

いかがでしたか?

1770年にイギリス領になった時、日本は江戸時代中盤以降。すでに文明、医療、学問など、さまざまなことが発展していた時代に、オーストラリアではまだアボリジニが狩猟生活をしていたのです。

国として独立してからまだ100年と歴史の浅い国ではありますが、その発展のスピードは驚異的。

今後のさらなる発展に注目です。

呑村紗也佳

私にとって海外留学は、「それまで持っていた常識や当たり前を180度覆し、価値観がぐんと広がった」そんな経験でした。もともと留学や海外に興味はなかったですが、両親が留学を勧めてくれたのをきっかけにオーストラリア・カナダ・アメリカで計4年ほど海外生活を送りました。

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